0804-切れない糸

いのおくんの記事にスターありがとうございました。
☆が畳まれているのを自分のダイアリで見るは初めてかもしれません。



さて、何を今更改まって、と言われそうですが、今日はずっと思っていたことを書きます。着地点はありません。
書き終えてから思いましたが、本当に誤解を生みそうな文章を書いてしまいました…。特定の子が居るわけでも担降りを迷っているわけでも、病んでいるわけでもありません。これはポジティブな感情です。






今更な話をしますが、わたしは薮担です。
では、この「わたしは薮担だ」という意識はどこから来たものでしょうか?
思っていることをひとつの誤解も生まないように文字にするのはわたしの乏しい文章力ではすごく難しいですが、とりあえず書いてみます。



もちろん、薮担を名乗るきっかけというものがありました。それからずっと薮くんの応援をしてきたわけですが、その“応援”の最中に、(自分が気付いていない)義務というか、変な責任感のようなものが芽生えてしまったのだと思います。
わたしの頭の中には、「好きだ」、というある種の先入観が根付いてしまっているので、冷静な自分がそこにはいないんですね。薮くんのことを、客観的に考えることができないんです。
薮くん=好き、っていう、自分の中で“当たり前”の方程式に乗っ取って、そんなフィルターを通して見ているんです。



例えば他の子が気になるとします。好きかも?から始まって、いや、好きだ、もっと知りたい、もっと見ていたい。そう思う子がいるとします。
でも、その子を追いかける上で、あるいは“担降り”を考える上で、薮くんのことを考えると、先ほど述べた先入観が先行して脳に言い聞かせるんです。
そうすると、「最近気になる子」と薮くんを冷静に比べることができないんです。比べるといったらおかしいですか、同じ秤ではかることができないんです。
わたしの不器用な脳では、どうしても薮くんをあるフィルターを通して見てしまうから。変な義務感というか、責任感というか、(無意識のうちに、)そういうものが頭をぐるぐると廻ってしまって、最終的に事態は何も変わってないのに満足してしまうんです。つまり、現状のままでいいやと考えることをやめてしまうんです。



何が言いたいかというと…



今までの記憶を全部忘却したとして、雑誌をぽんと渡されたとき。誰サイドに立つのではなく、中立の立場でコンサートを目にしたとき。
何十、何百といるアイドルの中から、わたしは薮くんを選ぶでしょうか?
今のわたしは、“薮くんが好き”の言葉に縛られてないでしょうか?



本当にそれが気になって、長い間考えています。
所詮、趣味ですから、自分の好きなように応援したらいいんです。いろんな応援の仕方があります。
ただ、固定概念にとらわれて薮くんを応援するのが嫌なんです。昨日までの「好き」からくる感情じゃなく、毎日新しい「好き」を生産したいんです。



うだうだと書きましたが、薮くんの顔を見ると、声を聞くと、心臓がどきんと跳ね上がるんです。これには先入観とか、そういうものは関係あるのでしょうか。
もしもそれが反射的なものなら、やっぱり“You are my everything”!
君のこと、もう少しだけ*1、応援させてください。

*1:といい続けて早○年…